地震体験から学ぶ 阪神大震災手記

阪神大震災から、もう5年が経とうとしています。けれども、僕はあの日のことをはっきりと覚えています。僕は震災の時はまだ小学校6年生で、姉は今の僕と同じ高校2年生でした。新居に引っ越してまだ1カ月目のことでした。やっと荷物を片付けたばかりで、机もベッドもピカピカでした。

僕はその当時まだ姉と2人部屋で、二段ベッドの上段の方に寝ていました。あの日はなぜか、嫌な予感がしていて、朝早く4時ぐらいから起きていました。けれどもベッドから降りていっては、姉の目が覚めて迷惑がかかるので、ベッドで横になっていました。

すると5時46分、「ゴー」っとものすごい地響きとともに、ものすごい上下の揺れを感じました。家が崩れたのではないかと思いました。
食器の割れる音、母の叫び声がとても恐ろしくて僕は布団にくるまっていました。そしてベッドの下段にいる姉のことがとても心配でした。ただ二段ベッドが壊れないことだけを願っていました。そしてだんだんと揺れがおさまってきました。

母が子供部屋に駆け込んで来ました。すごく僕達のことを心配してくれていました。姉も父も僕も、みんな大丈夫でした。


しかし、母は僕達の部屋に来る時に、割れた食器の上を素足で通って来たせいで、足の裏を切ってしまいました。それに、電気がついてから初めて分かったのですが、母の足には、青いあざがたくさんありました。よく見ると、たんすの跡がくっきりとついていました。母の部屋には、父でも一人では持ち上げられないとても大きな和箪笥があり、母はそれの下敷きになっていたのですが、僕達が心配で、それを押しのけて来たようで、大変驚きました。

その後テレビの報道を見て初めて地震の状況が分かり、交通機関もすべて動かない事が分かりました。そして父から「哲史、水を買ってこい」と言われました。母は危ないから外には出るなと反対しましたが、今後の事態を考えると、どうしても水が必要なのですから、一人で水を買いに行くことにしました。

外に出てとても驚きました。僕の親友のやっちゃんの家の、1階部分がなくなっているのです。けれども、どうしてあげることも出来ませんでした。そしてローソンに行くその途中で何人もの人が、瓦礫の下敷きになり、うめき声が聞こえました。助けられた人もいましたが、無理だった人もいました。こういう状況の中を通り過ぎてローソンにたどり着き、水を10本買うことができました。
帰り道に、公園にやっちゃんがいました。僕は水を3本あげ「僕の家に来るか」と聞きましたが、首を横に振るだけでした。祖父が死んだショックでしゃべれない様でした。

とりあえず僕は家に帰りました。そしてまた驚きました。改めてマンションの外観を見てみると、ピカピカだったマンションの水道管が折れ、壁には亀裂が入りぼろぼろでした。そして家族で屋上にのぼって西の空を見ると真っ赤になっていました。そして消防車のサイレンの音がけたたましく鳴り響いていました。こんどは神戸に住む祖母が心配になり、電話をしました。しかし電話は、つながりませんでした。その日は部屋を片付けて、余震に怯えながら家族いっしょにリビングで寝ました。その時、心から家族っていいなって思っていました。

次の日、僕は12時ぐらいまで寝ていました。みんなもう起きて、いろいろ用事をしていました。僕は父と食べ物を買いに行きました。
スーパーはすごい人でした。何軒も行きましたが、無料で水やお菓子をくれる店もあれば、商品はあるのに売ってくれない店もありました。こういう時にこそ、その人の人間性が出るなと思いました。

その日以後、僕は配給物資を取りに行ったり、水をくみに行ったり、街を見に行ったりの日々を過ごしていました。そしていろいろな悲惨な場面を目にしました。鉄筋のマンションがまるで紙で出来ているように曲がっていたり、電柱が折れていたり……。

あの地震で家や食器は壊れてしまったけれども、家族が生きているだけでも良かったです。それに僕は本当に家族のありがたさを思い知らされました。もう二度と、あんな出来事は起こらないで欲しいです。


参考サイト>> 「地震体験談集(被災経験談集)